Looking for a Sense of Authenticity

<芸術は長く、人生は短い(Ars Longa, vita brevis)>

つぶやき:社会教育とか生涯学習というもの

前職や現職で「大人の学び」という分野で禄を食んだものとして、生涯学習という分野への興味をぼんやりと抱いていた。7、8年前からパラパラと関連しそうな本を斜め読みしていた。家事育児あれど、育休で相対的に時間がとれるようになったので、体系的に学びたいと思って近場の図書館で借りたりして読んでいる。

「大人の学び」の流行自体は、学校以降に人が学ぶことの大切さを説いた近年の流れで、ネットとかの情報化による環境整備の面もあるし、知識基盤社会と言われるが、学び続けることが生涯において必要になるというどちらかというとエンプロイアビリティ的な面もある。そして、自分が惹かれたことのひとつには、もう少し功利性とは別の「面白さ」とかわいがや感、アヤシイ言葉で言えばコンヴィヴィアルなもの(砕けて言えば陽気さ、宴会感)として魅力に映ったということがある。*1

最近、生涯学習をちょっとずつ学ぶなかで、研究蓄積は実は相対的にはそれほどない…(人文系でいえば心理学はもちろん社会学とか教育社会学とか)…ながらに、「社会教育」という名で民主主義の土台をつくろうとしてきた実践的な学問であるということも知った。生涯学習とだけ書くと、楽しいもの、余暇を充実させるもの、レジャーのなかのひとつ、という印象もあるし、そういう面もあるのだけど、歴史的には社会教育というものを経て生涯学習というワードが提示されてきたという流れがあると知った。

(戦後の)社会教育とは、もともとは家庭教育、学校教育以外というざっくりとしたもので、道徳・しつけの家庭教育、知識インストールやもちろん社会性を教えたりもする成人までの教化過程としての学校教育以外なんでも包含するアンブレラな概念であった。生涯学習は、日本においてはその社会教育の流れのなかで現れてきたワーディングで、平たく言えばバブル期ごろに「消費対象としての学び」として学びを市場化・サービス化してきた中で生まれてきた言葉だったと知った。
バブル崩壊後は、生涯学習には地域づくりとかまちづくりの意味合いも付与されてきている。曰く個人的な学びの消費面は特に捨て去られてはいないが、それを還元する先として、地域とかまちとか、公共・共同性に資するようにしましょうねというもの。つまり財源不足・人員不足で「小さな政府化」し、市区町村の基礎自治体が疲弊するなかで、連帯のための作法として活用したいという意味付与も出てきていると知った。

ちょっと経緯のまとめが長くなったけど、自分が知り得なかった学問分野であり、背景や実践経緯を知ることで新たな考えが得られている。それは喜ばしい。研修とか育成で学んできた「おとなの学び」という観点だけでは知り得なかったことも多かった。

とはいえ、学び進める中で感じていることとして「手詰まり感」というか、この先の構想が過去の学問系譜からは導きにくいかもしれないということも一方で感じている。一番の大きな理由は、新自由主義政策の中で生涯学習が市場化とか連帯に活用されるものという、いわば統治のためのツールという面が規定要因として、ある種確定的になっていることがある。
教育施設として教育委員会管轄である公民館(これも実は学ぶ中で知った)が、首長管理下になってコミュニティセンターという似て非なる施設に変わることでより懐柔的な統治ツールになっていくとか、その運営も民間に委ねられるとか、諸条件はどんどんと“非教育的”環境になっていくという流れにある。その中で、行政から独立した教育というものが、半ば理想になっていて、まさに日本の戦後の社会教育(教育全体もだろうけど)のレゾンデートルは危機、というか、どう存在証明を発揮していけば良いのかという地点にあるようだ。

かといって、研究の方向性が生涯学習の現象を学びの現代エスノグラフィーみたいにトリビア化した研究になってもそれはあんまり発展性ないだろうと思うけど。で、社会教育とか生涯学習というものが、どう意義を果たすかというのが、いろんな本を借りてきて読んでもあまり広がりが見えないのも感じている。ひとつには、メインストリームの研究が公民館とか地域の学習機会とか、いわゆる社会教育の流れに位置付く実践を描いているようで、大切ではあるけれどミニマムな実践の事例研究が目立つことがある。…それって毎日会社に行って働いている人とか、育児と仕事で悩む働く女性とか、「普通の人」に呼びかけて興味を持ってもらえるものなのだろうかと。(もちろん普通の定義などできないけれど、大多数のホワイトカラー≒大衆的なものをイメージしている)

思うにこの分野は実践性が特徴で、フィールドがあってそこの営為を描くだけでなく、価値本位で関わって変えて行こうとする志向性が強みであり弱点であり、魅力なのだと思っている。批評や分析を超えて、行動する“政治的”な面がある。それって、もしかしたら今や社会派ルポタージュとかネット記事とかのほうが実質的に代替しているのではないかとも感じる。射程の広さ(敷居の低さ?)がもう少し生涯学習という分野にはあっても良いのかもしれない。そう思うと、生涯学習と言わない生涯学習論的なものは結構ありそうだ。なんせ、ネット社会はあらゆる情報が飛び交っている学習社会、なのだからねえ。

結構マジにこの分野のもつオルタナティヴ性が教育学とかアカデミックにあるひとつの希望に思えているので、もう少し学んでいこうかと思う。

何冊か読んできて、面白かったのはこのあたり。専門的だったり体系だったものはも少しあるのだけど。

ほかの「社会教育的すぎる」ものに比べると射程が広かったり社会学的で面白い。再帰的近代と生涯学習に関しての論考がシャープだった。こっちは教科書総論的なもので、読みやすくはないが情報量がある。筆者がばらけているので体系性はちょっと欠けるかも。教科書ではない論考集。そして生涯学習論の中でもちょっと毛色が違う印象。しかし著者の記述にファンになる。もっとも「普通の人」のおかれた疎外状況を切り取っている。研究実践は独特で広い。著者の教育論は哲学から現代批評までを下敷きにしていて非常に深い。これからもっと丁寧に読みたい。

*1:convivialという言葉そのものは、イリイチが提唱したとされていて、学びの本質性を示す魅力的な概念として教育学の一分野でも研究対象になっている。「自立共生」とか言われたりもしているが、カッコ書きした訳はそのままの英語の意味である