Looking for a Sense of Authenticity

<芸術は長く、人生は短い(Ars Longa, vita brevis)>

現在の小説はある種健全なまでに趣味化した、というお話し

とても良い記事。そして小説というものの現在の立場もクールに書かれていた。
翻訳家・柴田元幸さん「教養を身につけても別に良いことはない」

ぜんぶ引用したいくらいだが、まずこちらを。

 —言葉の発し手も受け手もモラルがより必要になりますか。

 「自分も含め世の中は本当にモラルを求めているだろうか。「世の中全体がうまく行った方が良い」「皆が幸福な方が良い」という視点に立てば、モラルを求めた方が良い。しかし今は、そう考える余裕のある人がどれだけいるだろうか」

 —そのような時代に教養として読むべき小説はありますか。

 「その問いが成り立たなくなっている。小説と教養がセットだった時代は過ぎた。教養とは、人間のことを知ろうとする試み。しかし今は「人間の中身なんて知ってもしょうがない」というシニシズムがあるように思う。これは健全なことかもしれない。実際に今、人間が地球に対して行なっていることを見ても、そんなに賢いとは思えないし」

 −そもそもどうしてセットだったのですか?

 「おそらく市民社会ができたことと小説が生まれたことがセットだった。王様がすべてを支配している社会では、民衆一人ひとりの個人性なんて誰も考えなくて、小説は成り立たないだろう。市民社会になって、一人ひとりが心の中に豊かな世界を抱えていて皆が違っているという前提ができると、人の心を分かろうとする気概が生まれる。そういったことに高揚を感じられた時代には、小説は教養としての役割があったと思う」

小説というのは教養=人間理解として読まれるものであった。しかしながら、人の心をわかろうとする価値そのものが減じた、ということなのだと。たしかに、メディアが発達して、大衆化した後に小説という「物語装置」で他者を理解するということはかったるいことでもある。そんなことをしなくても、映像メディアとしてテレビに映画に、そして文字メディアでもこのようなブログで自分語りは溢れている。

次の言葉も含蓄に富む。

どの分野でも寡占状態が進んで、最終的には一番売れる一種類しかモノはなくなるんじゃないか。悪い冗談みたいだが、資本主義の最終形態は社会主義と変わらないのではないか。多様性が殺される流れがある。商品として成立しなければ、モノは存在しないに等しい時代。もちろんそういう事態は嬉しくなんかないので、なんとか変えたいと思う。例えば、友達付き合いは商品ではない。商品でなくても成り立つ生活の部分はある。そこを広げられればと思うが、別に妙案があるわけではない」

一番強いやつだけ残る。ウイナー・テイクス・オール。中途半端な経済圏は成り立たない、が、柴田の本のようにもっと小さなファン的経済圏のほうが持続可能性があるのかもしれない。そういう認識は本人にもあるようだ。

 「「MONKEY」に限らず、僕がやる仕事はいつも「ちょうどいい規模感」なのだと思う。ベストセラーは放っておいても売れるから書店の人たちはあまり情熱を燃やさない。一方で、おそらく、いくら頑張っても売れない本もある。僕が訳している本や雑誌は、書店の方たちの頑張りが直接反映される、ちょうどいい次元なのだと思う」

個人的にこれは好き、というのは以下の箇所だった。広告業界でさんざん親しんできたマーケティング的ワードに今では本当に辟易しているのは、こういうことなんだなと思えた。

−「MONKEY」のコンセプトを教えてください。

 「コンセプトとターゲットという言葉は、(意識的かどうかはわからないが)編集会議でもほとんど禁句で、まず考えない」

 −企画や編集に関する会議ではよく問われるキーワードだと思いますが。

 「大学で勤めていた経験からすると、10人を超えると「会議」になってくる。会議では説得のためのパブリックな言葉が必要になってくる。それが「コンセプト」であり「ターゲット」であり「マーケティング」なのかもしれない。「MONKEY」の編集会議は大抵5、6人。5、6人だと、そのような言葉は必要のない建前。自分たちが面白いと思わないのに読者が面白いと思うはずはない。それに、僕以外のスタッフは人が何を面白いと思うかある程度承知している。だから僕はその辺りは考えない方がいいと思う」

ビジネスとは別の場で勝手にやれ、というのが大切だと思っていたが、今ではむしろ、ビジネスこそ勝手にやれ、という開き直ったコンサマトリー(自己完結的)が必要なのだろうとも思う。それでないと、つまり楽しくないとずっと働く動機なんて得られないのだから。